現在の上角間・下角間
小中島・福島の地域は、
慶長年間(1600年頃)まで
川熊村と呼ばれ、
川熊城を居城とする
川熊太郎が治めていました。
大同2年(807年)には
川熊村に白山社が創建され、
貞観(じょうがん)2年(860年)には
川熊太郎の邸内に
山王社が祀られたと伝えられています。
この頃の川熊村は、
皆瀬川(みなせがわ)を
上る舟の船着き場として栄え、
賑やかな村だったと
考えられています。
当時、皆瀬川は現在の
岩崎工業団地付近から二井田、
掵上(はばうえ)の北側を流れ、
落合付近で雄物川(おものがわ)と
合流していたと言われています。
川熊村はその右岸(北側)に位置し、
植田村や睦合(むつあい)村と
地続きでした。
永禄3年(1560年)
植田城主・大石定弘が小鷹狩りの途中、
福島の葦原(あしはら)で
古四王(こしおう)権現(ごんげん)の
木像を見つけ、
城の辰巳(たつみ)(南東)方向に
祀ったと伝えられています。
この頃、川の流れが変わり
船着き場でなくなった福島は寂(さび)れ、
荒地になっていたようです。
「岩崎水神社縁起書(えんぎしょ)」によると、
天正2年(1574年)5月、
川熊城主・川熊太郎、
植田城主・大石定弘、
荒田目(あらため)城主
荒田目小五郎の家臣が、
岩崎城内で会合し、
サカリ渕(ぶち)の竜神に祈願しました。
彼らは皆瀬川対岸の
郷村主(さとむらぬし)であり、
小野寺氏幕下(ばっか)の
将でもあり、
水利や堰の管理を
稲作農民とともに
行っていました。
岩崎城主・道高は協議の末、
水神社を再建し、能恵姫(のえひめ)を
合祀したとされ、
川熊城が岩崎城から見て
皆瀬川の対岸にあったことが
記されています。
天正14年(1586年)
小野寺義道が有屋(ありや)峠で
最上軍と戦った際には、
川熊太郎も武将の一人として
参戦しています。
文禄5年(1596年)
小野寺義道は最上勢に奪われた
湯沢城や岩崎城を奪還しようと
小森山(こもりやま)に陣を張り、
湯沢城の最上勢と
大島原(おおしまはら)で
大合戦をしましたが敗退し、
川熊・植田・南部倉(なべくら)
荒田目・今泉(いまいずみ)の
五城は最上勢に落とされました。
慶長3年(1598年)、
小野寺氏は川熊など四城の奪還を
目指して軍を動かし、
川熊城には山田民部(みんぶの)少輔、
山田二郎、深堀左馬介、柳田治兵衛尉、
川熊与九郎ら約1,500人が攻め入り、
奪還に成功しました。
しかし慶長5年(1600年)
最上軍が再び川熊城・柳田城を襲撃し、
川熊城は再び最上勢の手に
落ちたとされています。
その後、徳川家康によって
江戸幕府が開かれ、
小野寺義道は岩見(いわみ)へ流され、
秋田には佐竹義宣公(さたけよしのぶこう)が
移封されました。
湯沢には佐竹南家の佐竹義種公が入り、
川熊城のあった川熊村は
「角間村」と改称されました。
享保年間(1730年頃)に編纂された
『六郡(ろくぐん)郡邑記(ぐんゆうき)』には、
角間村は「上角間村」「下角間村」
「館(たて)角間村」
「福島村」の総称と記されており、
川熊城があったと推定される
館角間村は、後に皆瀬川の
川欠けによって消滅しています。
