
天保9年10月3日生れ、
明治32年1月10日死去(1838-1899)
62歳
孟尚は、湯沢佐竹南家(みなみけ)の
家老職を代々勤めていた中村家に生れ、
戊辰の役の際は湯沢軍の一員として
出陣しています。
また、養蚕の先駆者であり、
佐竹南家の代理人として
角間(かくま)で桑園(そうえん)を
開墾し管理していたことから、
維新後の明治2年、
養蚕の将来性を信じ
先進地である
福島県伊達郡(だてぐん)
長岡村に自ら赴いて
蚕種製造法(さんしゅせいぞうほう)を
伝習してきました。
そして明治5年、
角間村に移住し川原を開墾して
桑を植え、専ら蚕糸の
生産に励みました。
明治8年、養蚕団体である六徳組の
雄勝郡蚕種頭取に推挙され、
この改善と販路拡張に努め、
横浜市場に輸送した蚕種を
イタリアなどの海外へも
輸出しました。
また、明治12年には、
第1回秋田県会議員選挙に立候補し、
定数4人の雄勝郡内選挙区で
見事に当選を果たしますが、
議員職は合わなかったのか、
1期2年で辞退しています。
明治13年以降は
特に製糸改良に力を注ぎ、
明治16年自費で
伊達郡掛田町(かけだまち)より
教師を招いて農家に
「折返法(おりかえしほう)」を
伝授(でんじゅ)しました。
明治19年湯沢蚕糸業組合を
設立し組合長となりましたが、
育蚕については
常に拙劣なことを憂い、
明治26年に
「蚕児飼育法」と題する小冊子
1千部を印刷して無料で配布しました。
県内でも彼の技術は
高く評価されており、
知事を会長とした秋田蚕糸協会や
仙北郡繭糸(けんし)共進会などの
委員を勤め、
県内の養蚕振興に
大きく貢献しました。
また、弁天地域を県内でも
有数の養蚕地に育て上げた
功績は大きいものがあります。
秋田県では明治12年から
県内の老農層に
稲作の農事試験を委託していますが、
孟尚は明治15年に
反収(たんしゅう)2石(こく)
(約300㎏)以上の
好成績を挙げ、
稲作の栽培技術でも
高い評価を得ています。
